ぶらり歩き
5. 相模原市 徳本念仏塔巡り 平成16年5月29日
平成16年4月付けで相模原市内にある徳本念仏塔13基が有形民俗文化財に指定されたことを知り、博物館主催で開催された文化講座「大山道を歩く」で面識を得た友人と誘い合わせて、ふたりでこれらを巡る。歩いて回ることも考えたが、友人の体力を慮って自転車で走る回る。
この日は天気予報に反して真夏を思わせるような強い陽射しの一日となり、暑さとの戦いでもあったが、無事13基をデジカメに収めることができる。順路は表−1に示すとおりであるが、8時30分に龍像寺で待ち合わせして夕方4時過ぎに無量光寺で解散するまで、実に8時間あまりのサイクリングによる徳本念仏塔巡りであった。
予想を超えて長時間の徳本念仏塔巡りとなったが、6番目の徳本念仏塔は六地蔵と一緒に祀られ、しかも地蔵と同じ赤い布で覆われていたため、念仏塔と気付くのに時間がかかってしまった。因みに、写真は覆っている布を少しずり下げて撮影させてもらった。また、個人の敷地に祭られている念仏塔を捜すのには、遠慮もあり見つけるまでにかなりの時間を要することとなった。それでも、友人が事前に何箇所かについて自動車でその所在を確認してくれていた努力の甲斐があり、8時間で完了できたわけである。これがなければ二日がかりのサイクリングとなったのは間違いないところである。13基目の無量光寺の念仏塔を見つけたときには、汗だくでやぶ蚊の大群に襲われて痒さを堪えての写真撮影となった。
このような汗の結晶でめぐった徳本念仏塔13基の写真を表−2にまとめた。石の形はまちまちであり、高さも約50cm〜180cmとばらついている。南光寺の念仏塔は文字を読み取ることができないほど風化が進み、昭和47年に高さ180cmの角柱の念仏塔が再建されている。無量光寺の念仏塔は二つに割れたものを鋼製の枠で固定している。石といえども永久物ではないので、保存には手間隙と工夫が欠かせないといえる。
順路 | 名 称 | 所有者 | 住 所 |
1 | 淵野辺龍像寺・徳本念仏塔 | 龍像寺 | 東淵野辺3−1441−2 |
2 | 橋本・徳本念仏塔 | 香福寺 | 橋本5−212−7 |
3 | 相原正泉寺・徳本念仏塔 | 正泉寺 第二駐車場 | 相原6−320−1 |
4 | 大島長徳寺・徳本念仏塔 | 長徳寺 | 大島756 |
5 | 大島日々神社・徳本念仏塔 | 日々神社 | 大島2250−1 |
6 | 九沢下六地蔵・徳本念仏塔 | 個人 | 下九沢1996−2 |
7 | 九沢下宮下・徳本念仏塔 | 個人 | 九沢下549−1 |
8 | 田名山王坂・徳本念仏塔 | 相模原市 | 田名1412−1 |
9 | 田名南光寺・徳本念仏塔 | 南光寺 | 田名5646 |
10 | 上溝観音堂・徳本念仏塔 | 上溝元町自治会 | 上溝6−2783−4 |
11 | 上溝久保ケ谷戸根岸家墓地・徳本念仏塔 | 個人 | 上溝1781−1 |
12 | 下溝古山・徳本念仏塔 | 十二天社氏子総代 | 下溝2534 |
13 | 無量光寺・徳本念仏塔 | 無量光寺 | 当麻578 |
表−2 相模原市 徳本念仏塔の写真
(1)龍像寺 | (2)香福寺 | (3)正泉寺 | (4)長徳寺 | |
(5)日々神社 | (6)下九沢六地蔵 | (7)下九沢宮下 | (8)田名山王坂 | |
(9)南光寺 | (10)上溝観音堂 | (11)根岸家 | (12)下溝古山 | |
(13)無量光寺 | ||||
徳本上人の名前を知ったのは、上述の「大山道を歩く」で立ち寄った香福寺の境内で、学芸員の方から、冗談交じりに貼り薬のトクホンとは違うよと言われ、江戸末期の高僧・徳本の独特の書体を刻まれた念仏塔について説明を受けたときである。
徳本上人は、江戸時代後期に民衆の苦悩を救うために全国を行脚した浄土宗の高名な行脚僧である。例えば、藤縄勝祐氏による「文化14年、相模の徳本」、「「徳本行者と徳本名号塔」という研究もあるようで、相模をはじめ全国に1,000基を超える「徳本念仏塔」を残し、今に伝わっているという。神奈川県に何基の徳本念仏塔があるのか調べていないが、長野県には200基近い徳本念仏塔が確認されているという。今回巡った相模原市の徳本念仏塔は13基ということで、全国の約1%に相当する数である。ここで、徳本上人の経歴を極めて簡単に表−3にまとめる。
藤縄勝祐氏の「徳本行者と徳本名号塔」には、次のような面白い記述がある。
「徳本と呼ばれる有名人には、ここに述べてきた徳本上人(徳本行者)のほかに、もう一人、「甲斐の徳本」、「永田徳本」と呼ばれる人がいる。
室町時代末期に三河国に生まれ、乾室または知足斎と号し、医を業とし、駿河・甲斐・相模・武蔵の諸国を巡り、甲斐にあっては武田氏に仕えたこともあったが、権力を恐れず、貧しさに負けず庶民の救いに心を注いで医聖と仰がれた。
寛永7年(1630)2月14日、118歳で信州岡谷の地で没したという。(中略)
貼り薬「トクホン」(販売元・潟gクホン)の名は上記の「甲斐の徳本」の遺徳を偲んで事業の精神としたものである。
同社のホームページによると、(株)トクホンは明治34年(1910年)、鈴木由太郎によって東京本所に鈴木日本堂として創立、頭痛膏「乙女桜」、萬金膏「シカマン」を製造販売を始める。貼り薬「トクホン」が販売されたのは、昭和8年(1933年)のことである。また、社名を(株)鈴木日本堂から(株)トクホンに変更したのは、驚くことに平成元年(1989年)のことである。
したがって学芸員の方が冗談ぽく説明の中で言った「徳本上人は貼り薬トクホンの元祖」というのは、まさに冗談であったことがわかる。
年 号 | 年 譜 | |
1758年6月22日 | 宝暦8年 |
紀伊日高郡で農民の子として生れる |
1784年 | 天明4年 | 財部村現御坊市の往生寺にて出家草庵に住み、縄床に端座し、法衣も脱がず、髪も手入れせず、穀物・塩味を断ち、1日1合の麦粉を食べ、念仏を唱え続けた。更に、裸になって冷たい川に入ったり、崖を藤の蔓につかまって登ったりするなど、荒々しい修行の様子が語り伝えられている。 |
1794年頃 | 寛政6年 | 行脚を始める念仏塔は、紀伊・河内・摂津・京都・大和・近江・江戸・相模・下総・信濃・飛騨・越後・越中・加賀など、かなり広範囲にわたって残されている |
1803年冬 | 享和3年 | 関東に下向 |
1814年〜1817年 | 文化11年〜文化14年 | 関東を中心に東奔西走の布教。後世、「流行神」と名づけられるほどの熱狂的な信仰を得る |
1818年10月6日 | 文政元年 | 江戸で入寂。現在文京区にあるー行院墓所。辞世に「南無阿弥陀仏 生死輪廻の根をたヽば 身をも命もをしむべきかは」 |
1829年 | 文政12年 | 紀州藩主・第10代治宝が徳本上人の偉業をたたえるために、無量光寺(浄土宗)を創建した |
ぶらり歩きの他に五街道を歩いていると、偶然徳本の念仏塔に出くわすことがあり、表−4にそれらをまとめて示す。
表−4 五街道の徳本念仏塔
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